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墨田区京島は、京成電鉄押上線、東武鉄道亀戸線、曳舟川通り、明治通りに囲まれた半月状の地域に付けられた名前で、一丁目から三丁目まである。かつての寺島四丁目、吾嬬町西一丁目・四丁目・五丁目にあたり、空襲で大半が焼失した墨田区(旧・本所区+向島区)にあって、奇跡的に焼け残った地区である。 *写真にポインタを置くかタップすると、同じ場所の2017年の写真が見られます。 |
地平を走っていたころの京成押上線の踏切。京成曳舟駅の押上側で、踏切の直前で道が二岐に分かれていた。1969年に駅が荒川駅(現・八広駅)側に移転するまでは、写真のすぐ左側がホームだったため、駅前にあたるこの付近には多くの商店が並んでいた。下の写真は一部を拡大したもの。
1981/06(2017/11) |
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上の写真の左側の踏切を反対側から見たところ。駅の移転に際しては、駅前商店街の大反対にあい、高架化の際にはもとの場所に戻すことで決着した。ところが、高架化なったときには、すでに駅前には商店がほとんどなくなっていた。左の三祐酒場は最後まで残った。 1986/02(2017/11) |
1969年までのホームがあった場所。前後が踏切で5両分しかホームがとれなかった。写真奥に電車が停まっている場所が1969年以降の駅。移転後、元のホームは取り壊されて自由通路になった。これも、地元商店街との合意項目の一つだった。 1986/02(2017/11) |
この道を右に行くと京成曳舟駅。バキュームカーが懐かしい。 1980/05(2017/11) |
京成線の踏切。左が京成曳舟駅、右が押上駅の方向。正面突き当たりが銭湯の曳舟湯。下の写真はそのアップである。 1981/08(2017/11) |
1981/08(2017/11) |
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