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東京 -昭和の記憶-
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タイトル 
 

 墨田区(旧・本所区)の押上から業平橋あたりは、今や東京スカイツリーの話題でもちきりである。地元商店街では、押上と業平橋の地名をとって「おしなりくん」というゆるキャラが人気なんだとか。

 押上は、昭和30年代前半までは京成電鉄の終点であり、都電との乗り換え客でそれなりに賑わったそうだ。だが、都電が廃止されて、京成電鉄と都営地下鉄が直通運転をはじめると、単なる途中駅に成り下がってしまい、つい最近まで、下町の地盤沈下を象徴するような町になってしまっていた。
 それが、ここ1、2年でこの変わりようである。隣駅に実家がある私にとっては、何よりも「押上」という地名を正しく読んでもらえるようになっただけでもうれしい。ちなみに「おしあげ」と読む。

 業平橋は、『伊勢物語』のなかで、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」と歌った在原業平にちなんだ名前である。もっとも、言問橋は隅田川に架かっているが、業平橋は江戸時代につくられた運河である大横川に架かっている橋である。しかも、大横川の業平橋付近は親水公園になってしまったので、業平橋の下には川が流れていない。
 そして、東武鉄道業平橋駅(2013年に「とうきょうスカイツリー駅」に改称)の北側、押上二丁目(旧・中之郷町)にあった同潤会中之郷アパートのありし日の姿も合わせてご覧いただきたい。

*写真にポインタを置くかタップすると、同じ場所の2010年の写真が見られます。


押上から十間橋に向かう都電

押上から柳島方面に向かう都電23番。西十間橋と十間橋の間。
現在の写真では、バックに東京スカイツリーが見える。「GSバッテリー」の看板がある自動車修理工場が、3階建てになって営業を続けていたので場所がわかった。
* 下町の都電1970年代 から再掲

1972.7(2010.10)


江東区の北端、墨田区との区境近くにかかる柳島橋を渡る都電。左奥に柳島車庫が見える。
手前から左に流れるのが北十間川。ここから右手に別れるのが横十間川。どちらも、江戸時代にできた運河である。当時は、このあたりにもまだ材木が浮かべられていた。

1972.7(2010.10)

柳島橋を渡る都電

都電柳島車庫

柳島車庫を北十間川の対岸から見たところ。東京湾岸に新木場が完成するまで、墨田区や江東区では、運河に材木が浮かぶ風景をどこでも見ることができた。

1972.7(2010.10)


東武鉄道の曳舟~業平橋の中間地点あたりにある踏切。ここには、今も電車の留置線がある。京成電鉄は、この写真の左側で地下に入り、すぐに押上駅となる。

1982.2(2010.10)

東武曳舟~業平橋の踏切

業平橋の引込線

東京スカイツリーが立っている場所には、かつてセメント工場があり、何本もの引込線が敷かれていた。原料となる石灰石は、栃木県の葛生から東武鉄道の貨物列車で運ばれてきた。
空の貨車が連結された下り貨物列車が発車を待っている。
セメント工場の跡地は、一時業平橋駅止まりとなる電車の臨時ホームとして使われていた

1982.2(2010.10)


押上駅の北側、押上二丁目にある乾徳稲荷神社。周囲の家が立ち退いて、しばらくぽつんと残されていた。
現在では、高級マンションや東武鉄道の新本社に囲まれて、かろうじて息をしているといった風情。しかも、神社に通じる道は、頑丈な柵と鍵でふさがれてしまい、普段は立ち入れなくなってしまった。

1981.4(2010.10)

乾徳稲荷神社

 


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