銀座といえば、今さら何の説明も必要ない日本一の、いや世界的な繁華街である。東京東部に住んでいた私の家族にとっては、浅草はいつもの繁華街、銀座は特別なときに行く繁華街という位置づけであった。 *写真にポインタを置くかタップすると、同じ場所の2013年の写真が見られます。 |
■数寄屋橋名物 赤尾敏の辻説法 | |
数寄屋橋の名物だった大日本愛国党総裁・赤尾敏の辻説法。バックの建物は朝日新聞本社。その間の西銀座デパートは、外堀を埋め立てた跡に建てられた。数寄屋橋は、そこに架かる橋だった。 1982.11 (2013.3) |
上の写真の中央部を拡大してみると、演説中の赤尾敏の後ろ姿が写っていた。赤尾敏は、1990年に91歳で亡くなった。 |
日比谷シャンテができる前の有楽町界隈。帝国ホテルを背にして、有楽町方面を見たところ。左側が東京宝塚劇場、右側の映画館が有楽座(手前)と日比谷映画劇場(奥)。 1982.11 (2013.3) |
関東大震災後の1929年に建てられた「交詢社ビル」は、古きよき時代を偲ばせるユニークな外観だった。奥に見えるビアホール「ピルゼン」にはよく通ったものである。 1987.2 (2013.3) |
晴海通りの銀座四丁目交差点と三原橋交差点の中間あたり。左に見える「銀座名画座」はピンク映画の上映館で、写真を拡大してみると、「レスビアンハーレム」「激情」という作品名が見える。 のちに「銀座シネパトス」となり、2013年に閉館が予定されている。 1987.11 (2013.3) |
晴海通りと昭和通りとが交差する三原橋交差点。地下鉄東銀座駅がある。 1990.7 (2013.3) |
三原橋の交差点。中央の古めかしいビルは改造社書店。 1990.7 (2013.3) |
▼歌舞伎座の裏道。歌舞伎座ビルかできてずいぶん雰囲気が変わった。 1986.11 (2013.3) |
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▲昭和通りの東側は戦災を免れたために、古い民家がずいぶん残っていた。 1986.11 (2013.3) |
■銀座の路地 | |
同じ銀座でも、昭和通りの東側は、かつては木挽町(こびきちょう)と呼ばれていた。 1986.11 |
昭和通りに面した銀座二丁目のビル。1軒だけ昔ながらの木造2階建ての家屋が残っていたが、これが2013年も健在。刀剣の骨董品を販売している店として営業も続けていた。 1986.11 (2013.3) |
■発掘写真(1950年代の銀座のデパート屋上から) | |
父親が残したスライド箱から発掘した写真です。1956~58年ごろの撮影だと思われます。 |
銀座松坂屋の屋上から、銀座四丁目交差点方面を見たところ。交差点では、当時の車体色(緑と黄色)の都電がすれ違っている。 |
同じく、銀座松坂屋の屋上から西のほうを見たところ。中央の国会議事堂以外に、目立った高い建物が見えない。 |
銀座松坂屋屋上から南側を見たところ。当時は海が見えていた! |
こちらは、三越屋上での催し物の様子。「明治スイートシスターズ演奏会」とある。明治製菓が1952年に結成した女性ばかりのバンドで、舞台には左からアコーディオン、歌手、ドラムス、ギター、スチールギターの5人。なぜか、左にすべり台が置かれて、子どもたちが遊んでいる。 |
2013年3月作成 2015年3月写真追加(1950年代の銀座のデパート屋上から) |
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