
百人町という町名は、新宿区のサイトによれば、江戸幕府が警護のために鉄砲隊百人組をこの地に住まわせていたことに由来するという。町域の大半は新大久保駅の西に広がるが、一丁目と二丁目の一部が東側にあり、以前から雑然とした雰囲気に包まれていた。
戦前は文化人の住む静かな住宅街だったそうだったが、戦後は一転して日雇い労働者や朝鮮半島の戦役から逃れてきた朝鮮・韓国人が多く住むようになり、コリアンタウンのルーツになった。かつては新大久保駅を降りると、駅の北東にあるロッテの工場からチューインガムの香りが匂ってきたものだった。今ではネパール人、ベトナム人などが増え、日本一の多国籍の町となり、いろいろと問題を抱えてはいるが、新宿区では多文化共生のモデルケースにしようと試みている。
山手線・西武新宿線の線路際には、電車からも興味深い建物が軒を連ねているのが見え、新宿に用事があるときには、わざわざ新大久保で降りて1駅歩いたこともしばしばあった。
彦左小路をはじめ、戦後の面影を残す建物の数々も補助72号線の整備によって姿を消し、やけに明るく消毒されたような町並みに変わってしまった。
*写真にポインタを置くかタップすると、同じ場所の2020年の写真が見られます。

線路沿いの道から、大久保通り方向(北方向)を見たところ。突き当たりが大久保通り。すぐ左に新大久保駅の改札口がある。
右は「大和質店」、その向こうは「旅館いこい」。
1988/03(2020/09)

上の写真の「旅館いこい」の前から、新宿方面(南方向)を眺める。奥には、「旅館永吉」という看板が見える。新宿に向かって一方通行だったと思うが、車と人とはやっとすれ違えるほどの道幅だ。
1988/03(2020/09)

「大和質店」の前から、新宿方面を見たところ。この道だけでなく、大久保通りと職安通りを結ぶ南北の道は、みなこのくらいの道幅である。
1988/03(2020/09)

戦前に創業した鳶服の専門店「豊多屋足袋店」。現在は、東側に並行する通りで営業を続けている。
その向こうは旅館かじか荘。
1988/03(2020/09)

「豊多屋足袋店」の正面。陳列窓には半纏・法被が飾られている。手前のバイクは、ホンダCD50。
*この写真には現在との対比はありません。
1988/03

新大久保駅と西武新宿駅のほぼ中間地点にあるガードから、 新宿方面を望む。角の土地は、すでに更地になっている。
遠くに西武新宿駅ビルの「Pepe」がちらりと見えている。
1988/03(2020/09)

上の写真のガードから新大久保方面を眺めたところ。角にある建物には「富士電工ビル」という看板が掲げられている。
1988/10(2020/09)
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