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東京 -昭和の記憶-
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タイトル
 

 現在の台東区東上野というと、上野駅の浅草寄りにあって、旧町名でいうと浅草区北清島町、下谷区北稲荷町、南稲荷町、神吉町、西町、車坂町などにあたる。現在の上野七丁目にあたる下車坂町、上車坂町を含めて、上野駅以東の台東区では、鳥越、根岸、日本堤の一部とともに、戦災を免れた数少ない地域の一つである。
 そのために、21世紀になった今でも、このあたりには古い家々が残っているが、1980年代まではさらに歴史的な東京の雰囲気を色濃く残していた。

  なかでも有名なのは、北稲荷町(現・東上野五丁目南部)にある同潤会上野下アパートメントと、それに向かい合う「落語長屋(噺家長屋)」だろう。上野下アパートメントは、とうとう現存する唯一の同潤会住宅となってしまった(その後、2013年に解体)。また、落語長屋もほとんどが取り壊されて、今では2軒だけが残っているのみである。

*写真にポインタを置くかタップすると、同じ場所の2009年の写真が見られます。


東上野五丁目・清洲橋通り

東上野五丁目と六丁目を隔てる清洲橋通り。写真の右方向が浅草、左方向が上野である。
隅田川に架かる橋の名のついた通りでも、言問通りや蔵前橋通りは台東区を東西に走っているのに、この清洲橋通りだけはそれと直行して南北に走っているのがちょっと不思議な感じ。

1984.4(2009.11)


上の写真の反対側を見たところ。1つ先の交差点を左右に走るのが浅草通りで、その下を日本初の地下鉄が昭和2年に開通した。交差点には稲荷町駅がある。
中央の建物が同潤会上野下アパートメントの東棟。

1984.4(2009.11)

東上野五丁目・清洲橋通り

噺家長屋の路地の入口

同潤会上野下アパートメント東棟の1階には商店が入居している。1灯式の信号が珍しい。 道を入った左手に見えるのが落語長屋。最近は、上品なつもりか噺家長屋と呼ぶのだそうだが、どうもしっくりこない。

1984.4(2009.11)


道を入ったところから落語長屋を眺める。右側には同潤会上野下アパートメント西棟(東棟よりも大きい)が見える。

1984.4(2009.11)

落語長屋

落語長屋

これが落語長屋! 中央に四軒長屋があって、その左右にやはり板壁の住宅が続いていた。かつては8代目林家正蔵(のちの林家彦六)と9代目桂文治が住んでいたので、その名がつけられたそうだ。

1984.4(2009.11)



8代目正蔵は「稲荷町の師匠」と呼ばれていたが、まさにここに住んでいたのである。現在は、2軒が残っているのみだが、このうちの1軒には、今も噺家が住んでいるとのことだ。

1984.4(2009.11)


同潤会・上野下アパート  

落語長屋と向かい合って建つ同潤会上野下アパートメント(西棟)。この道の両側は、まるで時が止まったかのような空間であった。
関東大震災前のこの周辺は、下谷万年町を中心とした貧民窟であったそうだが、それが震災で焼けてしまい、そのあとに建てられたのが、当時としては最先端のこの住宅であった。

1984.4(2009.11)


 


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