筑豊の路線、美祢線 (1977年3月)
筑豊の炭鉱が次々に閉山となり、小規模のところがかろうじて残っているころ、まず向かったのは5万分の1の地図上にトロッコ軌道が記されていた鴨生(かもお)。すでに炭鉱もトロッコもなかったが、工場内の軌道や炭住の家並みを見ることができた。
左(小画面では上)の写真は、漆生線の朝の通勤列車。行く手のカーブの手前に鴨生駅がある。遠くに飯塚のボタ山が見える。右(小画面では下)の写真は鴨生駅前。
すでに蒸気機関車は姿を消していたが、直方駅あたりは賑わいがあった。何か通るかなと思って直方駅南方の跨線橋で待ち構えていたところ、たまたまキハ35系(たぶんキハ30形)を先頭にしたディーゼル列車と入れ換え中のDD51がやってきた。
左は、添田駅到着直前の様子を、添田線の車内から見たところ。添田線もすでになく、添田駅には限られた本数の日田彦山線の旅客列車が発着するだけとなり、線路の本数もわずかになってしまった。
右は、地上時代の鹿児島本線枝光駅。ディーゼルカーは筑豊本線からの列車か。和服姿のご婦人がなかなかいい感じ。
左の写真も枝光駅。石炭を積んだ貨物列車が停車している。
右は、山口県の美祢線美祢駅。
美祢線の南大嶺から大嶺駅まで、1駅区間だけての盲腸線があった。こちらも、石炭輸送で賑わった路線だったが、1997年に廃止された。
2023年5月公開
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