石北本線 常紋信号場 (1975年3月)
次にやってきたのが、石北本線の撮影名所として知られた常紋信号場。生田原駅と金華信号場・西留辺蘂駅の間にあり、当時は客扱いをしていた。
音威子府から急行「礼文」に乗り、旭川で真夜中に急行「大雪5号」に乗り換えて生田原へ。そこから、普通列車に乗り換えて、当時客扱いをしていた常紋信号場に到着したのが朝の6時52分だった。まさに山の中という場所である。ここで、2時間半ほど撮影をした。
まずは、SカーブをやってくるD51貨物列車を撮影。手前に撮影者がたくさん写っている。「ずっと下がって撮ったほうが、いい構図になるのに」と思うのだがしかたがない。今となっては、むしろ、そんな時代を記録した写真として意味があるかもしれない。
左の写真は、雪の壁の向こうを走るD51である。さきほどの列車が、信号場の構内に入ってくるところだろう。
急坂に設置された常紋信号場はスイッチバック構造になっており、右は、ちょうどそこで行き違いをする貨物列車同士を撮ったものだ。いわゆる、交換風景である。やってくる列車だけを撮るのでは平凡だし……と思っていろいろ頭をひねった結果、こういう構図に決めた。やってきた列車の牽引機はD51の444号機と読める。
そして、行き違いを待って発車する貨物列車。敬礼をする駅員がきちんと写っている。牽引機はD51の943号機、後補機はDD51だ。本務機と後補機が逆になっていると、まったく撮影意欲が湧かないところなので、この順序でよかった。この写真が、私にとって国鉄の現役蒸気機関車を撮った最後の写真となった。
そして、しばしの静寂に包まれる常紋信号場。腕木式信号機は、まだまだ各地に残っていた。
その後、やってきたのが遠軽方面に向かう客車列車。こちらはDD51が牽引していた。そして、私たちの乗る網走行きの2両編成ディーゼルカーが到着。これに乗らないと、しばらくここに停まる列車はない。駅員は、「さあさあ、乗った乗った」という感じで、われわれを含む撮影者をせかすのであった。
ところで常紋信号場は、急坂ですれ違うことを目的につくられた停車場である。付近に人家があるわけではない。だから、この写真に写っている2人の男性は、仕事が終わって家路に着く国鉄職員かその関係者なのだろう。
その後は、網走を経由して釧網本線で釧路に向かったが、あまり鉄道とは縁のない旅であった。この駅名票は釧網本線の緑駅のもの。また、釧路に近い茅沼駅では、たまたま駅の向こうで餌をついばんでいる丹頂鶴を駅のホームから見て、写真に収めることもできた。
釧路からは普通客車列車「からまつ」で小樽に向かい、余市でニッカの工場を見学。函館からはまた青函連絡船に乗って急行列車ではるばると帰るのであった。帰路に撮った写真は、「夕張線、室蘭本線」「上野から北海道へ」のページに収めてある。
2021年3月公開
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