page 1 2 3 4 |
吾妻橋を渡り、浅草に到着する[24]番(系統)。 バックのアサヒビールの工場がなつかしい。この1階にいかにも庶民的なビアホールがあり、できたての生ビールが飲めた。 いまでは、アサヒビールの本社(通称ウン○ビル)が異彩を放っている。 1969.12 |
1960年代は、都内のおもな通りにはすべて都電が走っていたように思う。 放浪癖があった私は、小学生時代から都電を乗り換えてあちこちに行ったものだった。 浅草に住んでいた小学生時代は、銀座と南千住を結ぶ[22]番(系統)や、三筋町にある図書館に向かうために[23][24][31]番にお世話になった。 中学生になると、[16]番で通っていた時代もあった。 だが、いつのまにか路線も少なくなり、写真を残そうと思ったときは、だいぶ減ってしまっていたのは残念である。 それでも、なんとか、両親の実家がある墨田区を中心にして、小学校時代に住んでいた台東区、そして江東区、中央区という下町を走っていた都電の最後の姿を写真に残すことができたのは幸いである。 撮影:1969年12月~1972年11月11日 |
柳島車庫前で出発を待つ[23][24]番。向こう側が福神橋(終点) 7両もつまっている……。 1972.7 |
柳島には安全地帯がなかったから、道路上から乗り降りする。 歩道橋の上から押上・浅草方面を見たところ。 1972.7 |
押上-十間橋あたりは、昭和30年代そのままの雰囲気を残していた。 このあたりも、地下鉄半蔵門線の延長と前後して、マンションがずいぶん建っている。 1972.7 |
十間橋-柳島で、横十間川にかかる柳島橋を渡る。当時は、このあたりにもまだ材木が浮かべられていた。 東京湾岸に新木場が完成するまで、墨田区や江東区ではこんな風景をどこでも見ることができた。 1972.7 |
柳島車庫に勢ぞろいした車両 1971.9 |
page 1 2 3 4 | 次ページへ ▼ | |
■トップページ | 「私鉄ローカル線を訪ねて」表紙■ |