日豊本線 (1973年7月)
門司港22時24分発の日豊本線夜行急行「みやざき」から降りたのは、小雨ぱらつく夜明けの高鍋駅だった。構内で発車を待っていたのは、C6120が牽引する貨物列車。初めて見るC61は、前々年の奥羽本線電化で九州までやってきたもの。まさか、この20号機が、のちにJR東日本で動態保存になるとは想像もしなかった。
走行写真は、駅の北側にある小丸川を渡る上りの貨物列車。河口にあたる場所で、広々とした光景が印象的だった。
蒸気機関車が通過してから、ようやく日の出。そこにDF50牽引の普通客車列車がやってきた。当時は、「蒸気機関車のときに日が当たっていればよかったのに」と思ったが、今となってはこれでもいいかなと思う。
そののち、宮崎駅でいったん下車してから、撮影名所だった青井岳へ向かう。宮崎から青井岳まで乗ったのは、東京発の急行「高千穂」だった。
翌日、青井岳駅で列車待ちの間にやってきたDF50牽引の特急「富士」である。朝日を正面に浴びて、きれいに撮れた。
青井岳の駅からしばらく歩いて、山の中で友人たちと蒸気機関車の通過を待つ。真夏の南九州の日射しは、痛いほど暑かった。しかも、線路際にはマムシの巣があるなんていう噂もあったので、おっかなびっく歩いていった。
カラー写真はC57 112。ずいぶん手前でシャッターを切ってしまったように見えるが、このあとでモノクロフィルムを入れたカメラでシャッターを切ったのだ。
モノクロ写真は、また別の列車でC57 65。
結局、この日は昼ごろから夕方まで青井岳でうろうろしていた。鉄橋の写真は、青井岳駅の近くにある超有名撮影場所だ。
そして、青井岳駅から何百メートルか歩いた線路脇で撮ったC57。駅を発車した音はするのだが、その後は空転音と停止音の繰り返しで、なかなか本体が顔を見せない。直前ににわか雨があったために、すべったのか。ようやくやってきたのは、初めて見るC57第四次型、192号機だった。C59にも似たその優美なスタイルは印象深かった。
翌日は、これまた有名撮影地の田野へ。相変わらず天気は今一つだったが、うろうろ歩きまわってずいぶん写真を撮った。だが、フィルムの現像に失敗して現像ムラができてしまい、出来がいま一つなのが残念である。
田野の築堤をゆくC57 89牽引の貨物列車はいい感じ。次は、ちょっと目先を変えて、木造の道路橋を前景に入れて撮ってみた。そろそろ撮影に飽きてきたことがうかがえる。
田野の築堤には、急行「高千穂」もやってきた。小倉で鹿児島本線経由の急行「桜島」と切り離されるのだが、それでもこれだけの長大編成で走っていた。
そして、宮崎機関区へ。スポーク車輪が美しいC55 57と、奥のC57 113というパシフィック機のお見合い状態である。宮崎機関区は駅に隣接しており、宮崎駅のホームからこんな写真が撮れたのだった。
この2枚も、宮崎駅ホームから撮った宮崎機関区の写真。C55 57とC61 18である。現像ムラが残念。
田野からの帰りに、宮崎から宿泊地の青井岳まで乗ったのは、さきほどのC55 57が牽引する客車列車だった。ちなみに、この機関車は吉松機関区の所属であり、この後も見ることになる。
最後の写真は、前日に宮崎神宮から宮崎まで乗った普通列車を牽引していたC61 18である。
2018年11月公開
Copyright (c) Takashi FUTAMURA