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蔵出し鉄道写真館
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京成電鉄 (1969年3月~1970年1月)


佐倉駅の3000形特急 関屋駅を発車したクハ2104
 

1968年3月に浅草から葛飾の高砂に引っ越して、京成電鉄利用者となる。転校するのも面倒くさいということで1年間小学校に通ったのである。まだまだ内装が木造ニス塗りの電車が走っていたころだ。
左は佐倉駅で1969年3月に撮った特急成田行きの3000形。原型のままのヘッドライトと運行表示幕である。成田の行き先表示板は「○」形であった。このときは、成田空港建設のための三里塚牧場が廃止になるということで、卒業式直後の小学校の級友と遠出をして見に行ったのである。右にちらりと級友が見える。
右は京成関屋駅を発車した千葉行き。1970年に入ってからの写真で、手前はクハ2100形である。千葉行きの表示板は「□」。京成電鉄のこのシステムは秀逸で、文字が見えない遠くからでも、この形で行き先が判別できた。


高砂駅停車中の荷物電車 特急「開運」号
 

これ以下の6枚は、地元の京成高砂駅で撮ったもの。1970年になってからの写真である。
左は荷物電車と呼ばれていた列車だが、その実は、佐倉付近から大きな荷物を持って取れたての新鮮な野菜を都内に売りに行く、いわゆる「かつぎ屋」のおばちゃんの専用車であった。
右は特急「開運」号の通過。すでに名車1600形は引退して、通勤輸送にも流用できる3290形、3190形が上野~京成成田の「開運」号の運用を担っていた。


高砂駅のモハ200 高砂駅を発車した3000形
 

北総開発鉄道(現・北総鉄道)が乗り入れる前の京成高砂駅は、このようなのんびりした雰囲気だった。
左は上野行きの青電モハ200。グリーンの濃淡の車体色は、はじめて見たときには正直なところ「汚い色だ」と思ったものである。それが今になって、リバイバル色だとかいって新しい車両を青電色に塗ったものが登場するのだからおもしろいものだ。上野行きの方向板は「△」。
右は3000形の快速上野行き。青砥方面に向けて発車したところ。まだ複々線化はされていない。このときの快速は、上野~京成千葉を走っていたもので、中間部の青砥~京成津田沼が各駅停車になるという変則的な運用であった。この快速が走ったのは短い間だった。


高砂駅を発車する3300形 高砂駅に停車中の3200形
 

左は、登場したばかりの3300形。京成の3000系電車は、毎年少しずつマイナーチェンジするのがおもしろかった。この3300形ではじめて行き先と種別を示す電動方向幕が採用された。側面にも電動方向幕を採用したのは、確か日本初ではなかったかと思う。成田方面に向けて発車したところ。
右は、3200形の西馬込行き。3200形電車によって、京成スタイルは一つの完成を見たと私は勝手に思っている。


関屋駅のホームから
 

トップ右の写真と同じく、京成関屋駅のホームから堀切菖蒲園方向を撮ったもの。快速上野行きが、まさに通過しようとしている。左には、通過したばかりの特急「開運」号が見える。
撮った当時は、電車が小さくてずいぶん間のびした写真のように思っていたが、今見ると周辺の家並みが時代を感じさせて、とってもいい写真のように思える。中学校入りたての子が撮ったにしては、実に渋い構図である。




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