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大塚駅前の停留場から北側を望む。停留場の名前は「大塚駅前」だが、正確にいうと「大塚駅下」! いまは、このあたりも区画整理が進み、ビルが立ち並んでいる。 1974.3 |
雑司ヶ谷~鬼子母神間を快走する。この付近では、かなりスピードを出す。 1974.3 |
鬼子母神停留場。線路を横切るこの道を手前の側に歩いていけば、雑司ヶ谷鬼子母神はほど近い。 この一帯は、いまでも昔の東京の山の手(本来の)らしい雰囲気が残る数少ない場所の一つである。 1974.3 |
面影橋近く。このあたりの路地を迷いながら歩くのは楽しかった。 いまでは、西早稲田地区の区画整理によって、当時の面影はま~~~ったくなくなってしまった。 1974.3 |
当時は、こんな木造の家がびっしりと立ち並んでいた。いまでは線路の両側が車道になり、のんびりと散歩をする余裕もない。 1974.3 |
工事中の早稲田終点。ぽつんと乗り場があるだけで殺風景だった。まるで戦争直後の光景みたい。 1974.3 |
20世紀末の雑司ヶ谷停留場にて。 2000.5 |
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道の上を走る都電を見慣れた目には、京成線の町屋から見える専用軌道を走る都電は、はじめのうちは不思議な乗り物に見えた。 それもそのはずで、王子電気軌道として明治44年に開通した路線であり、昭和17年に東京市電に統合されるまでは私鉄だったのである。 一時はこの路線も廃止の計画があったのだが、専用軌道が多くて代替バスが走れず、また沿線の人たちの反対があるために、なんとか廃止を免れているということを当時の新聞で読んだ覚えがある。 いつしか廃止計画も立ち消えになり、電車も線路もかなり近代化された。 そういえば、高校生や大学生のころは、地下鉄を使わずにわざわざ遠回りをして、この都電に乗ったっけ。 そのころとくらべると、この沿線の様子もだいぶ変わってしまった。とくに、町屋と早稲田付近の変わりようは驚くばかり。それでも、雑司ヶ谷や栄町、飛鳥山のあたりには、昔の雰囲気がまだまだ残っているので、ときどきぶらぶらと散歩をしている。 そうそう、荒川線はよく「下町の都電」と呼ばれているけれど、この沿線を「下町」と呼ぶのはちょっと抵抗があるなあ。まあいいけど。 |
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